久保田彰 プロフィル

Akira Kubota

プロフィール写真
1953年
東京神田生まれ

幼少時よりアマチュア画家であった父の手ほどきにより、絵画、造形方面に興味を喚起される。絵画、模型制作における受賞歴多数。1984年第2回東急ハンズ主催のハンズ大賞コンテストにおいて、出品作「パイプオルガン式玄関呼び鈴」が審査員特別賞を得る。

美術学校在学時より音楽鑑賞の趣味から、失われた楽器「チェンバロ」に興味をもつ。

自身の美術への興味対象と当時の美系教育との差に違和感を感じ、次第に古楽へ傾倒する。
特にチェンバロは、美術と音楽双方の趣味を共有できる楽器として、傾倒度合いが深まり、自作の準備を始める。

1973年
この頃より、自宅の自室を作業場として試作を開始。

思考錯誤と挫折をくり返しながら、2年後の1975年にスピネット1号器を完成。その後数年間、資金は深夜のデパート・ディスプレイ作業で得ながら、5〜6台を試作。失敗作は10台を超えるが、これは経験値として、現在も重要なノウハウとして生きる。

1978年
ドイツ・オルガン・マイスター須藤宏氏の工房(現須藤オルガン株式会社)に見習いスタッフとして勤務。

須藤氏はドイツの国家資格であるオルゲルバウ・マイスターを日本人として初めて取得された、筋金入りの楽器技術者で、帰国して間もない時期に短い期間ではあったが、楽器作りに全くシロウト同然の私が、マイスター須藤氏のもとで経験を積む機会を得られたのは、きわめて大きな収穫であった。
木工技術の基本は言うに及ばず、鍵盤楽器に関する基本知識、モノ作りの姿勢、哲学から工房運営、経営ノウハウ等の貴重な示唆を得る。
須藤氏は現在でも日本オルガン界を牽引する、重要な技術者として活躍中。

1980年
チェンバロ関連の資料、オリジナル楽器の情報を求めて数回渡欧。この時に出会った、一台のオリジナル・ルッカースに大きな衝撃を受けて、フランドル様式のチェンバロ製作を自身の仕事の軸足にすることを決意する。

1970年代は、近代のピアノ技術を導入したいわゆるモダン・チェンバロと、歴史的な工法、構造に基づくヒストリカル・チェンバロが同居していた時代であった。双方がそれぞれ優位を主張して議論が交わされていた。しかしまもなく歴史的チェンバロが圧倒的な表現力を発揮して、以降モダン・チェンバロは世界的に完全な死語となった。
いわゆる、古楽器復興のムーヴメントに、西欧に遅れをとらず同調できたのは、アジアでは日本のみであったのは奇跡であり、幸いであった。
1981年

結婚を機に埼玉県新座市に工房を構えて、主にフランドル様式のチェンバロの受注製作を始める。

半年ほどは以前通り、メンテナンスやレンタルの仕事をこなしながら試作を続けていたが、いくつかの重要な修理依頼の打診も入ってきた。海外で求めたチェンバロを輸入した愛好者が、日本の天候(主に湿度)によって不具合を生じ、今後の状況に不安をもっていた。とにかく経験を積みたい私にとって、この仕事は極めて大きな実績を得られた。本場の楽器を修理出来るというチャンスは、一件の成功によって、口コミで次々に広がり、修理の依頼は、しばらく工房の主要な仕事になった。特に本場といえども、個人工房の技術的なクオリティは、我々日本人の木工技術には全く恐れるものではなく、この時期の経験は、今に至るまで技術的な研鑽の場となった。日本のチェンバロはどうあるべきかが、次第に明確になってきた。

1990年
BASICモデルの試作、開発。

邦人チェンバロ奏者のパイオニア世代の一人、鍋島元子女史(故人)の依頼で、学生向けの廉価な練習用チェンバロの製作、開発の打診をうける。

チェンバロという楽器が復興して、今に至るまで、個人製作家による受注製作という非常にマニアックな世界が形成されているが、女史はそのことがこの楽器への理解の敷居を高くしていると感じていた。自身の生徒が充分な理解と習熟なしに、高額な楽器をオーダーせざるを得ない実態を憂慮し、必要最小限にして充分な性能をもつチェンバロ(車でいえば大衆車の位置づけ)の、継続的な製作を依頼された。
BASIC・RUCKERS=普及タイプ一段鍵盤チェンバロは、初心者向けのスタンダード・モデルとして100台超の製作実績をもち、現在も価格の改定なしに短納期にて製作される。

1991年
CD「シフォーチの別れ」(武久源造 演奏)楽器提供

チェンバロのCDは欧米中心で、邦人奏者のものはまだ1枚も発売されていなかった。このCDは邦人チェンバリストが、邦人製作家の楽器を用いて、国内レーベルからリリースされた、記念すべき純国産の初CDであった。「レコード芸術」他、多くのメディアで好意的に取り上げられ、地味なクラシック界のCD作品としては異例のヒットとなった。
以降、コジマ録音よりリリースされる武久のチェンバロCDすべてに楽器を提供し、すべてが「レコ芸」特選盤の快挙を成し遂げる。現在も記録更新中。

1998年
東京藝術大学、非常勤講師として古楽器科「チェンバロ建造法」講義担当(2004年まで)
旧知のチェンバロ、オルガン奏者でバッハ・コレギウム・ジャパンを世界的な古楽オケに育てた鈴木雅明氏より、藝大でチェンバロ関係の集中講義を依頼される。

2003年
工房を市内畑中に移転

2004年
オペラシティ、近江楽堂のために初期フレンチ・タイプ製作

1999年、新宿初台にオープンしたクラシック音楽の殿堂オペラシティ3階「近江楽堂」は、その類まれなアコースティクと立地の良さに加え、良心的な料金体系で、古楽器系コンサート会場の重要な拠点となった。しかし、元来古楽器公演は想定されていなかったため、コンサートに不可欠な常設チェンバロも収蔵場所もなく、公演日にはチェンバロの導入コストが、運営のネックになっている声が聞こえてきた。事務所スタッフと音楽オフィス・アルシュとの協議のうえ、オーナーへの交渉とご理解を得て、常設チェンバロの設置に前向きな回答を得られることになった。今後も多くの古楽器関係者の利用が見込まれる近江楽堂に常設されるチェンバロとは、どのようなタイプがふさわしいのだろう。
自分の仕事の主流であるフレミッシュ・ルッカースは、実績もあるし最も現実的な選択肢であった。しかし私はもう一歩先に進みたかった。ルッカース製作は自分の軸足であることに変わりないが、その魅力を伝える努力は、一定の達成感を感じていた。古楽器愛好者にとって、ひいてはチェンバリストにとっても未知の楽器はまだまだ沢山あるし、不特定の奏者にも充分にアピールできる、知られざるモデルを提示してみたい。

フランスのクラヴサンがルッカースの影響下に成立したスタイルであることは、チェンバロ奏者なら通常の知識であるが、それ以前、いわゆる初期フレンチというタイプに関して正確な情報と知識、イメージをもっている者はごく一部であろう。かく言う私も未経験モデルで製作の機会をうかがっていた。狙いが定まると、不思議なほどピントが合ってくる。まず収納場所に制約があり、フルサイズの二段鍵盤は置けないことが分かっていたが、初期フレンチなら何とかなりそうだ。またこのホールは残響が長い(長すぎる?)ため、余韻の充分なチェンバロには逆効果になりがちだが、イタリア風の構造をもつこのモデルには最適かもしれない。18世紀の王朝風装飾もこのホールには不似合いな印象をもつが、一部初期フレンチは木地仕上げであった可能性が高い。様々な条件が重なり、特定のモデルに依らない、私自身の設計とイメージで構成された初期フレンチ・クラヴサンは、古楽器公演の中でもちょっと異質なタイプのチェンバロとして、多くの奏者にご利用いただいている。また、幸いにもこの方面の研究者としては第一人者である渡辺順生氏は、この楽器を殊更気に入ってくださり、毎年年末にリサイタルを行う栄誉をいただいている。

2004-5年
日本で3台目のクリストーフォリ・ピアノ製作

2005年
DVD映像「チェンバロ・歴史と様式」構想

2007年
フェルメール展オープニング・コンサートにヴァージナル提供