少し詳しいチェンバロ解説

その後18世紀末のフランス革命により、宮廷文化は終焉を迎え、多くのチェンバロは暴徒により破壊された。調度品として贅の限りを尽くされたチェンバロは、革命の暴徒にとっては浪費の象徴、重税への恨み、憎悪の対象でしかなかったのだろう。

kubota-cembalo_product-photo_013イギリスは最後までチェンバロ製造を続けていた国であった。ヨーロッパ諸国で最初に産業革命を成し遂げたイギリスは、植民地から大量に調達される良質な木材と、圧倒的な機械力を背景に重構造なチェンバロの量産体制を築きあげた。産業革命は多くの富裕層を生み出し、都市部は人口過密、ブルジョワ階級の子女たちは音楽をたしなむことが上流社会のステイタスとなり、家庭用の省スペースな「スピネット(小型チェンバロ)」の大きな需要が起きた。ロンドン近郊のメーカーは、音域は充分で小型化が可能なスピネットのニーズに応え、イングリッシュ・ベントサイド・スピネットという、上品で質の高い独自の小型チェンバロの様式を生み出した。

最初期にチェンバロの様式的完成を成し遂げたイタリアは、他国が二段鍵盤などの構造的改良、表現力向上への熱心さにくらべて、最後まで音域の拡張=大型化以外の構造的発展は見られない。二段鍵盤への執着は例外を除き無かった。

一方で17世紀末から18世紀にかけて、フィレンツェのメディチ家お抱えの楽器職人クリストフォリは、すでに他国に先駆けて、チェンバロの強弱表現への別な方向での革新的実践=ピアノフォルテの発明に意欲的に取り組んでいた。この偉大な発明は、のちにドイツのジルバーマンとその弟子によって受け継がれ、初期ピアノの完成に導かれる。

イタリアン・チェンバロが二段鍵盤に執着しなかったことと、この発明の実用化に何らかの因果関係がありそうだと感じるのは、私だけだろうか?

イタリアのチェンバロ興隆から半世紀ほど遅れて、フランドル地方に新しいチェンバロ製作の流派が起きる。フレミッシュ・スタイルと呼ばれる様式とほぼ同義語となっている感のある、ルッカース工房の圧倒的な存在感が、他の個人工房の印象を薄くしているが、実際はかなり早い時期から、この地域にチェンバロ製作の萌芽があった記録が残されている。

いうまでもなくチェンバロ製作史上空前の規模と隆盛を誇り、全ヨーロッパに名声を轟かせ、その後の各国のチェンバロ製作工法の成立にも大きな影響を与えた、栄光のルッカース工房抜きにチェンバロの歴史を語る事は出来ない。

初代ハンスから二人の息子アンドレアスとヨハネス、更に甥のクーシェまで、3代に渡る一族が統括した工房は、約80余年の間一貫したスタイルと工法を守り抜いた稀有な事例としても注目される。ほぼ1世紀に渡る活動期に製造された楽器は数千台ともいわれる。

ルッカースの特徴は、イタリアンの数倍の厚みをもつポプラ材を枠状に組み上げる、いわゆる枠組工法による製造法を、高度に規格化して量産体制を築いた点にある。更に装飾的な要素もチェンバロの調度品としての役割を意識し、当時の美術系流行を取り込んだ豪奢な仕上げを施して、商品としての付加価値を上げるなど、ブランド戦略にも長けていた。

ルッカース・チェンバロは18世紀になってもその人気は衰えず、隣国フランスでは自国の土着的様式(初期フレンチ)を駆逐し、時代的にはひと昔前のルッカースを18世紀風に改造する作業が、パリのクラヴサン工房の主な仕事となってしまった程であった。

現代の標準的なチェンバロの仕様として、ホールや教育機関に常設される機会の多いフランス様式のチェンバロは、ルッカースの改造型がそのルーツにある。

ドイツのチェンバロは、統一した様式感で括るのが困難である。ドイツは各地方に様々な様式の製造法とスタイルが混在して、概ねイタリア式の底板工法が踏襲されるも、統一感を伴ういわゆるジャーマン・チェンバロという概念は特定できない。

ハンブルグのハス一族のように、当初より16ft弦列を備え、三段鍵盤という例外的なスタイルも現存する。

近年のバッハ研究の成果として、ケーテン宮廷の楽長時代にベルリンに発注し、バッハ自ら引取りに立ち合った?とも伝えられる、当時最先端のチェンバロメーカーが、ベルリンのミヒャエル・ミートゥケ工房であったことが確実視され、ジャーマンスタイルの研究は大きく一歩前進したのが、記憶に新しい。

その他の国々、スペイン、ポルトガル地域、オーストリアやハンガリー、スェーデン北欧地域にも、もちろん独自の様式が存在して、研究がすすめられている。

私の人生の最後に、これら全ての様式のチェンバロが出揃い、一堂に集められるなどという奇跡的なことが起きるのだろうか。

→さらにマニアックな知識